『SPENSR』で深夜を過ごそう。【推薦】
真夜中は正真正銘自分だけの世界だ。誰も起きていない。誰も出歩いていない。誰も自分も事を気にしない。最高の時間であることは言わずもがな。そんな街に繰り出して歩きながら小躍りしたくなる夜はきっと誰にだってある。僕は度々あるぞ。
そんな夜を彩るものと言えば最高な曲だ。カッコいい曲が必要だ。イヤホンを耳に突っ込みながら歩いているだけで静かにノリノリになれる音楽が必要なのだ。
何がいいたいかというと僕は最近『SPENSR』(スペンサー)にお熱なのだ。たまらなく好きなのだ。
『SPENSR』は岡山出身のアーティストだ。彼の名前は名前が内海一希。なんか本名をいろんなところで目にするんだけど、そんな彼のソロプロジェクトがスペンサーという名前なんだろう。実はそこらへんよく知らないんだけど。色んなサイトを見るとそういう風に書いてあるから多分そういうことなんだ。
今年5月にリリースされたばかりの1stアルバム「MOTHER BOARD」からの一曲、『愛なんて』。一聴して思うのは「すげぇかっけぇなぁ…」だ。夜に合う。ごはんが進むレベルで合うのだ。
このソウルでエレクトロで…かつ落ち着ける感じ。めちゃくちゃグルーヴィだ。
明らかに日本人向けのポップスにローカライズされているんだけど、その加減が絶妙でたまらない。だって僕は日本人だし。J-POP大好きだし。みんなもそんな曲調に惹かれるだろう?最強だ。しかも彼はこんな曲がめちゃくちゃ得意なのだ。
そしてすごいのはこの曲に限らず、MVだとかミックスとかジャケットデザインとか。それらをすべて自分でこなしている点だ。『SPENSR』は生粋のマルチクリエイターなのだ。文句のつけようがない。
そしてこの1stE.P.「PRESS START」からの一曲。
ベースが良い。マジでいい。別にベーシストとかいう訳じゃない(と思う)のにかなりツボをつくベースラインじゃないか?ベースラインの良さはこれに留まらないぞ。
それにシンセの音が独特だ。古めかしいような、新しいような。有機物的かつ無機物的で…なんだろう、とにかくすごく筆舌しがたい音を出してくれる。それに合わせるように曲調も多彩で聞きごたえがある。
それになんか、ゲームを好きそうなところに勝手に親近感を感じている節がある。多分曲の飛び道具とかエッセンスとして取り込んでいるだけなんだろうけど、MVのふとしたところにゲームが好きそうな演出が成されている。
僕はチョロい故にそんな演出に騙されてしまう。君もゲーマーかい?(本人のTwitterが糸井重里とか小島秀夫をフォローしてるので恐らく合ってると思う。)
彼を聞くのに真夜中である必要はない。落ち着きたいとき、適度に踊りたいときなどいつでも聴ける。僕は眠りたいときとかに最近聴いてるぞ。マジでオススメ。
今日(9/9)も新E.P.がリリースされたんで今が聴き時です。
今年頭角を現したと言えば同じく岡山出身の藤井風。そのラインナップにどうにかして彼を加えたいのだ。どっちもカッコいいからね。
実は岡山出身で紹介したいアーティストはもう一人いるんだけど、それはまた今度。
『ボク姫PROJECT』で女装男子を理解したぁい!【感想】
女装男子。男の娘とかTSとか、僕はあの手のジャンルに疎い。(厳密に言えばどれも違うらしい。)
常日頃から「女の子で良いじゃん。」とか「結局のところ全部ホモでは?」と考えてしまうし、なにより女装をしても男として振る舞うキャラがさほど好きでは無いのだ。
女装をするなら心まで女になっていて欲しいし、そうでないなら無いなりに女装に圧倒的な恥じらいや誇り、納得できる出自を持っていて欲しい。だって人を騙すために女装してるキャラって性格悪すぎるし、なにより生意気じゃないか?
…いや、別に毛嫌いしているわけではない。ただこれまでの人生で触れることがほとんど無かっただけなのだ。食わず嫌いであると。
そんな中今回僕がプレイしたのは日本一ソフトウェアから発売されている『ボク姫PROJECT』というゲーム。
端的に言うと女装をする男の娘にフィーチャーした作品で、ゲームジャンルはズバリ『女装覚醒アドベンチャー』である。目覚めちゃうのだ。
僕が初めてこのゲームの情報を見たとき、「日本一また意味不明なゲーム作ってるな」と思った。当然じゃないか。男の娘ならともかく女装男子だなんて一体どこに需要があるジャンルなんだよ?…需要があったから制作決定したらしいが。
とにかく!その手の嗜好が全くない僕にとって、今作は全く興味の無い位置にあるゲームなわけだが、僕はどうしてもこのゲームを買わなければならない理由があった。
俺は順当な流行り神を出して欲しいの!!
風見純也と小暮コンビをまた見たいの!!
僕は同社のホラーADV『流行り神』シリーズが大好きなのだ。
僕がADVを好きになるきっかけとなったゲームの一つであるし、なにより都市伝説を題材にした作風は僕の趣味形成を一手に担ってくれたため非常に思い入れがある。水明先生推しです。
3部作で完結してるとはいえ続編の希望を持ってしまうのはやはりファンとして当然の心理だ。
そしてなにより「日本一が最近ヤバい」。そういう話を聞く機会が最近増えてしまった気がするからだ。詳細はともかく、僕もちょっとそう思っている節があるし、マジでヤバいなら買い支えなければならない。もし日本一が居なくなってしまっては「流行り神4」は夢のまた夢になってしまう。非常に不本意だ。今思えば不純で不誠実すぎる動機だなと思うさ。
それに「全年齢向け女装ゲームを作りたい!」という明後日の方向に向いた熱意は嫌いじゃなかった。彼らはなんと老若男女が安心してプレイできる女装ゲームを目指していたのだ。
レーティングの都合でCERO:B(12歳以上推奨)になってしまった時は爆笑したと同時に「どうしてそこまで…」とボロボロになってもなお戦い続ける戦士に向ける眼差しを送ってしまった。応援せざるを得ないじゃないかこんなの。
痛みに耐えてよく頑張った。感動した。
前置きはやめよう。とにかくそんな並々ならぬ思いを持って挑んだこのゲーム、悪く無いのだ。いや、むしろかなりいい。
____________________
今作の主人公である伊草ミナトくんは普段からよく女性と間違えられるほどの風貌の持ち主だ。彼には姉がおり、姉を非常によく慕っている。
姉のマリカは容姿端麗で深い慈愛と強さを併せ持つ女性だ。さらには天性のセンスから10歳にして逮捕術を完全にマスターしてしまう弟思いな完璧超人である。しかも夢は総理大臣。もはや化物だ。
自らを深く愛してくれる姉に応えられるように、近づけるようにと彼女と同じ逮捕術を学び、彼女と同じ高校を目指すなど、常にミナトくんは姉を主眼においた人生を過ごしてきた。
じゃあミナトは姉に近づく一環として女装をするド変態シスコン野郎なのか?と言われればそうではない。
彼は女顔である自分の容姿にコンプレックスや苦い思い出を持っているし、姉と自分を比べブルーになってしまう瞬間だってある。だからこそ女々しい自分から脱却するために逮捕術を習ったし、男として姉を支える存在でありたいと常に願っているまっすぐな人間なのだ。
それに舞台である百合愛(ユリア)学園も随一のお嬢様学校ではあるが男子部は存在しているし、彼は無事に男子部での合格を果たしている。
ではなぜ女装をする羽目になってしまうのか。それはかつて学園に通っていた姉を救うためである。姉を救うことと女装をすることに一体なんの関係があるのかは疑問であるだろう。しかしここは物語のキモ。ぜひプレイして確かめて欲しい。
____________________
さて、かくかくしかじかでミナトはついに女学生用の制服に肩を通しウィッグを被ることで姉とそっくりである仮の姿「伊草エリカ」として学園生活を送ることとなる。
エリカくんにとってココは危険で溢れる場所でしかない。女装をしているとバレてしまっては退学どころの騒ぎではなくなってしまうし、学園で『四姫(後述)』として存在していた姉のイメージすら傷つけてしまう。
そのうえ本来は男として入学しているため常に男と女でいることのバランスを取り続けなければならない。眺めているだけの僕ですらマジでヒヤヒヤが止まらないのだ。(バランスに関するツッコミどころは無くは無い。)
さらにこの百合愛学園には一つ、絶対のルールがある。それは『カワイイは正義』だということ。かわいければすべてが許されるのだ。
そのカワイイ至上主義からか、男子部の設立は当時非常に渋られていた。その考えの強さは今年の男子部への入学者が2名のみという形で表れているし、男子学生は女子学生との接触が非常に厳しく取り締まられている。
そしてこの学園には学内の投票によって選ばれたトップオブトップの美少女として君臨する4人の生徒たちが学園の実権を握っている。
通称『四姫(シキ)』。彼女達はカワイイ至上主義の到達点であるわけだが……四姫はめちゃくちゃヤバい。
それぞれの生徒に大量のファンが存在しているし、睡眠薬を盛ってもまるでお咎め無しな上、先生に対する発言力や学食のメニューをひと声ですべて変更できるなどマジで強い権力を持っている。
さらには四姫のみにしか共有されない極秘の情報があるなど、年功序列であることも影響し学園においてかなり閉鎖的で独裁的な組織として存在しているのだ。
そして一番ヤバいのが彼女らはなぜか超能力を持っているという点だ。
一人は目を合わせただけで人を失神させることができるし、一人は近くに居るだけで泣きたくなるし、一人は命令すれば誰もを要求に従わせることができてしまう。プリーチャーかな?
しかし四姫の存在理念はあくま生徒たちの目標であり模範であり、生徒たちを導びくためという健全な存在なのだ。全員が四姫であることに誇りや責任をしっかりと持っているし、実際学園の運営は滞りなく行われている様子。
それに、肝心の本人たちがそれほど権力を振りかざさないのがマジで救いである。世界は優しい。
かつては四姫のメンバーであったミナトの姉、マリカ。姉を救うためには彼女に近い存在であった四姫に近づく必要があるだろう。極秘の情報にもヒントが隠されているかもしれない。
しかし男子部では制約があるためどうしても近づくことは困難。そのため女装は姉を救うためには避けて通れない手段なのだ。
____________________
今作は分岐はあるものの選択肢がほとんど無いため、特殊なモードはあるものの基本的には文字送りを行うだけの簡単なADVである。しかしタダでは終わらない。なにせ今作は『女装覚醒アドベンチャー』である。目覚めちゃうのだ。
なぜミナトが女装をするのかと言えば姉を救うため。姉を救う一番の近道は姫になること。そして姫になるには姫候補として選挙で過半数の生徒から支持されなければならない。
そう、姫になるためには他の姫候補と選挙という形で人気を競う必要があるのだ。戦う相手はもちろん息をのむほどの美少女であるわけで。そんな相手に勝つには付け焼刃の女装では勝つことは叶わないだろう。
つまり支持を得るためには女装力をあげること。選挙にとどまらず男とバレないためにもミナトをより乙女らしく育成することが必要なのだ。なにが言いたいかってボク姫は生粋の男の娘調教ゲーであるということ。
わけあってミナトくんと同棲しているアキラちゃんはミナトの従妹だ。女装を勧めてきたのも姫になることを提案したのも彼女。そして彼女が発案した調教プロセスこそがタイトルでもある「ボク姫PROJECT」なのだドン!!!
少し脱線するんだけどこのアキラちゃんがカワイイんですよ…。マジで一番好き…無理…しんどい…尊い…。アキミナきてる…。
成長には3つの要素がある。ビジュアル、教養、精神。どれも女装に必要なものであることはご存じの通りだろう(!?) 。そのため選挙までにどの要素を伸ばすかという取捨選択は難易度は高くないものも非常に重要だ。
姉のために女装を始めざるをえなかったミナトはなりゆきとはいえ自分の恰好を恥じているし、ヒールもスカートも全く落ち着かないし、いつ女装がバレるかを恐れている。
スカートの正しい抑え方は?女子トイレの使い方は?3つの要素に合わせて何も知らないミナトくんにそれをぶち込むのだ。なんだか興奮してきたな。
____________________
確かにミナト…もといエリカはカワイイから姫となる選択肢を選ぶことができた。しかしカワイイだけで姫になれるほど甘い世界ではない。
そもそも最愛の姉を救うためとはいえ毎日女装を行い、時には特訓に励むなんて常人に可能なはずがない。自尊心は崩れさり距離の近い女学生に平静を乱されまくるに決まっている。
それでもどうにか姫になると決心が付けられたのはミナトくんが果てしなく強い人間だからであり、同時に「登場人物全員善人」であったためだ。
結果としてエリカちゃんは姫となるわけだが、姉を救わない限り戦は終わらない。情報を集めるために常に全力疾走を続けなくてはいけないのだ。そんなひたむきな彼女をクラスメイトは常に尊敬してくれる。かつて選挙で争った仲間もいつの間にか後ろで支えてくれる。
男の姿で会う男子部の人々だってエリカを心配してくれているし、エリカの従妹としてサポートを行っている(と説明している)ミナト自身の事も気にかけてくれる。
厚いサポート、信頼。ミナトとエリカそれぞれの居場所だってあるし、求められている。それがあるからエリカは姫への道を突き進むことができたし、姉に関する調査も決してやめなかった。なんて暖かいのだろう。僕は各ルートで一度は泣いた。
しかし辛いのだ。周りが善人であるからこそ辛い。理由は明白だ、目的を隠した上に性別を偽り、エリカとして全校生徒を騙し続けているのだから。
____________________
『本当の自分』とは一体どれなのだろう。
ミナトとして男子部で笑う彼女が、アキラと女装の特訓をする彼女が、姉に常に憧れている彼女が『本当の井草ミナト』なのだろうか。
どれも違う。その一つ一つ、過去や各場所に存在するすべての彼女を集約した存在こそが『伊草ミナト』なのだ。
いままで過去によって裏付けされた今でミナトちゃんは道を切り開いてきた。しかし未来の自分を形作るのは過去じゃなく今の自分。何度も言う通りミナトちゃんは女装をしなくてはならないのだ、今のままではどうしても限界が訪れるだろう。
もちろん変化だってリスクが無いわけではない。本来の自分とイメージのギャップに悩むことだってある。できることなら男のままで、今のまま籠に留まっていたいものだ。
しかしミナトちゃんは見事に変わろうとしてみせた。確かに彼女に選択の余地は無かった上、女装を続ければ続けるほど秘密も罪の重さも増えていくのは間違いない。
それに結局どこまでいってもエリカはミナトでしかなかった。どんなに偽っても取り繕ってもベースにあるミナトの過去を隠すことなんて不可能。
しかしそれで充分だったのだ。ミナトちゃんは自分は変えられずとも持ち前の人間力で周りを変えることができた。
そしてミナトが壁にぶつかった時は仲間たちの達の手助けで最終的にミナト自身を変えることを可能にしたのだ。
カワイイからモテるのか?人として優れているからモテるのか?また別の理由があるのか?やはり全部だ。
____________________
みんなも今からでも遅くない。お子様にも安心してプレイさせることができる”ほぼ”全年齢向け女装ゲームで性癖の英才教育を済ませておこう。教育に加えミナチャンカワイイヤッターだけでは終わらないゲームになっているぞ。
僕は女装男子とか男の娘とか、あの手のジャンルにはまだ疎い。(やはり厳密にはどれも違うらしい。)しかし僕はこの素晴らしいゲームを通して「とりあえずは女装男子も悪くないかな。」そう考えられるような広がりを得ることができたのだ。
……なんてことはまるで無い。はずだ。
ただ、このゲームが僕にとってかけがえのないモノとなったのは確かだ。
あとマジで流行り神4待ってます…
……また、ボク姫に興味はあるが一抹の不安を感じるという方はいるかもしれない。そんな時は公式がゲーム冒頭2時間分を垂れ流す動画を公開しているため、そちらをチェックしてから購入を検討してみよう。(本記事で書いている以上のネタバレがあるため注意)
あとクリア後には公式Twitterにあるボイドラを探すと幸せになれます。そして声優の方々に最大のリスペクトを送ろう。
『暮らしの半分は』/シンリズム
素朴な曲は良い。辛い時も嬉しい時も、いつだって聞けるから。
これもそんな曲だ。控えめなトランペットはどこか恐縮しているようだけど確かにそこにいるし、フルートだったりほかの音をまったく邪魔していなくてフラットに聴くことができる。
バタバタばっか暮らしの半分は
バタバタバッタしてりゃ終わるんだバタバタばっか暮らしの半分は
バタバタバッタしてりゃ終わるんだ『暮らしの半分は』/シンリズム
「バタバタ」という言葉はネガティブさやポジティブさを全部内包した言葉のように思える。忙しい時は”自分”が無くて寂しいけど、忙しさが無いなら無いでそれで退屈という具合に。
労働ってなんなんだろう、公私のバランスをとるのは本当に難しい。二十余年生きているけど、いやだからこそよくわかっていない。ただこの曲を聴いていると辛いことにあっても「バタバタしてるから仕方ないか…」と割り切れるような、そんな気がする。
仕事の朝に聴くと心に余裕が生まれるけど何もない午後に聞くとなんだかすごく切なくなる。満たされない思いに苛まれる。僕には形容できないけど、きっと生まれる感情はどちらも同じだ。キャッシュクリアをするように余分なカロリー消費を減らしてくれる。
『暮らしの半分はバタバタしてりゃ終わるんだ。』だなんて達観しているようで、でも当たり前なことを言っているような気もして。とにかく結局どっち付かずだ。僕のバランスを中心にポンと置きなおしてくれる。そんな曲。
『The Last of Us partⅡ』で踊る。【感想】
※バレは最低限にしたつもりですが、気になる方は"少なくとも"チャプター「シアトル1日目」になるまでプレイしてから見るのをおすすめします。
前作の『The Last of Us』は当時主流となりつつあったオープンワールド路線と正反対のリニアなゲームだった。
テーマも単純明快で、娘を失くした父がふと出会った少女とある種家族のような関係性を築いていくという手垢にまみれたもの。
しかしそんな古臭いTPSが2013年のGOTYを獲得したのは当時最高レベルのグラフィックやグロテスクな演出、そしてなにより登場人物の複雑な感情変化をドラマチックに捉えたストーリーによるものだ。誰も文句は無かっただろう。
なぜ世界中がこのオールドスタイルなゲームに感涙したのかといえば、『The Last of Us』が“ゲーム”というメディアで存在しているという理由に他ならないだろう。自らの手でジョエルを動かし、エリーを守り、進む為に橋を掛けた。
そうしてきた結果、崩壊した世界で生き抜く人々とエリーのどちらも手放したくないという複雑な感情をキャラクター達を通して抱いてしまうのだ。僕は終盤のジョエルの選択を否定しながらもその心情に痛いほど共感することができた。
エンディング。ジョエルとエリーの物語は後味の悪い結果を残しながら終わっていった。あれで終わりだったのだ。曖昧な言葉と横目に広がる過酷な世界がすべてである。
きっとテレビの前で流れる映像を見ているだけではここまで感情は揺さぶられなかったはずだ。
だから『The Last of Us partⅡ』の発表を聞いた時僕は茫然としていた。
「成長したエリーとかあの完璧なラストに続編を付けるってめちゃくちゃ野暮じゃないか。もしどんなに素晴らしい続編でも前作を超えるなんて叶いっこない。」
そんなことを考えて、でもやっぱり2人の結末を知るべきである気がして。僕は発表当初から発売直前までプレイするか否かでずっと悩んでいた。だから結局このゲームをプレイする理由の8割は義務感によるものだ。めんどくさいオタクだ、僕は。
さて、結果的にこのゲームは前作を超えることは無かった。しかし素晴らしいゲームである。僕はそう思った。
物語はジョエルがWLFという集団に殺されることで動き出す。彼の死抜きで話を進めることは不可能だ。エリーの復讐心が全編を通しての原動力になっているのだから。
愛をもって触れていたキャラクターが惨殺されるのはやはりショックで直視し難い光景だったが、特段怒りを感じることは無かった。エリーの言う通りジョエルは「敵の多い男」であったし、同時に「世界を捨てた男」であるからだ。
シリーズが続く以上いつかは清算しなければならない問題だったし、過程がどうあれ人間らしい死様は迎えられないと思っていた。ただその時が来たということなのだろう。
ジョエルくん
— かきもち (@PSerimochi) 2020年6月18日
そうは言いつつやはりめちゃくちゃ悲しかったが。
このゲームはとにかく暗く重ったるい空気が続く。エリーも常に復讐の機会を伺っていて「あそこにはヤツがいて、アイツはそこにいる」と気を張り続けているからだ。復讐に比重をおいた弛緩のないストーリーはプレイしていて息苦しさを感じた。
それに加えてゲームの大半を過ごすことになるシアトルも基本的に曇りで時が進むにつれ雨脚も強くなる。現実の天気も合間って最悪の精神コンディションで挑む復讐だった。
とはいえ、ゲームプレイは素晴らしいと胸を張って言い切れる。モーションひとつひとつが非常に丁寧だし、もちろんグラフィックもノーティドッグらしい品質。
崩壊したシアトルがもつ湿った表情と探索も違和感なく合致している。これ見よがしに「ここにアイテムあるよ」という雰囲気を放っていないのだ。かつ導線も非常に自然でどのように設計しているのか不思議としか言いようがない。
戦闘もほふくや草むらといった要素が追加されてたことにより幅が広がり、かつ懐の深いステルスが可能となったことで前作と比べててレベルが何段階も上昇している。新たに登場する敵も秀逸で、常に新しい緊張と切迫感を与えてくれる。続編として完璧だろう。
しかし今作は戦闘で大きな間違いを犯しているように思える。
それは敵NPCにそれぞれ名前が設定されいるという点だ。戦闘中、もし仲間が死亡したことに他NPCが気付くと悲痛にも名前を叫ぶという演出があるのだが、別にこちらとしてはなんの感情も湧かないのだ。
そういった作りこみは復讐というテーマに加え、普段より圧倒的な暴力性を描いてきたこのシリーズではあまりに独りよがりで独善的な行為に思える。
やりたい事はわかる。モンハンをやっている横から「モンスターにも家族がいるのに」と憐まれるようなアレだ。それぐらい理解してはいるが、殺さなければ先に進むことの出来ないゲームにおいてそういった要素は……そりゃあリアルではあるが罪悪感に昇華されることは決してないだろう。
なぜならこの手のゲームにおいて死が持つ価値はメレンゲより軽いからだ。彼らがヒトだろうが飛竜種であろうが、いくら肉付けしたところで結局はゲームを進める上で立ちふさがる当たり判定でしかない。どうやっても開発とプレイヤー間にあるこの認識の差は埋まることが無いと思う。
その上因縁のある相手は全員カットシーンでの殺害になるのはこのゲームのよくない点だろう。そのため、一人一人に名前という薄い個性を与えるより因縁の相手を超耐久で登場させれば良かったと強く思う。リアルリアルと言えば聞こえはいいが必要な部分は「ゲーム的」でいいのだ。だってゲームだから。
ゲーム上で行われる殺人の意味は後で考えればいいのだ。殺した相手の近しい人物がナイフを携えてこちら向かって来た時に初めて行動に理由や結果は加わるのだ。
繰り返すが、人殺しゲームにおいて「死」の価値は低い。唯一「死」に強い価値を与える方法があるとすれば、プレイヤーに人物へ強く感情移入させることだろう。僕たちにとってのジョエルのように。
で、肝心なこのゲームはというとキャラ描写がすこぶる巧い。
物語中盤までプレイすると、エリーからある人物へ視点が変わり操作することになるのだが、そのキャラは明らかにジョエルを模倣したものになっているのだ。彼と同じく近接は素手であるためナイフをクラフトする必要があり、仲間のために橋をかけ、13歳の少年と行動を共にし、組織を壊滅に追いやることになる。
ノーティドッグは性格が悪い。そんなジョエルに似たキャラクターを動かしていると、それがどんな人物であれ徐々に懐かしさや親近感を感じざるを得なくなる。しかし肩入れしてはいけないことはわかっているのだ。なぜならプレイヤーは操作キャラにどんな未来が待っているか知っているからである。
それにエリーとは打って変わって復讐とは縁遠いストーリーとなったことに安堵しているのも事実だ。笑って泣いて、手を取り合って。起伏あるストーリーは素晴らしいものだと。
仲間キャラもエリー時よりこころなしか魅力的に映る。こちらのキャラにも辛いことは起こるが、それと同じぐらい人の優しさに触れることができるため復讐一辺倒だった心がフッと軽くなるのだ。
さらに今作は事あるごとに「良い思い出」を擦り付けてくる。過去の誕生日やあるクリスマスの思い出を追体験することができるのだが、そのどれもが暖かく切ない。そしてこれも二度と手に入らないものだということをプレイヤーは知っている。
本編とのコントラストがあまりに眩しく涙が浮かんでしまう。つらい。
問題なのは、ゲームを進めるたびに激しく変化する僕の感情や意識の全てをノーティドッグは理解し、予想した上でこの辛く苦しい物語と一抹の温もりを用意しているという事だ。
ジェットコースターの到達点は高ければ高いほど良い景色を拝むことができる。しかし落下の勢いは指数関数的に増していくようなものだ。このゲームを楽しめば楽しむ分、後に最悪な気分になる事はわかりきっているのだから。
踊らされている自覚はある。しかし止める事ができない。だって踊る事はこんなにも楽しいのだから。
ジョエルが死ぬであろうことはわかりきっていた。復讐がテーマだとアナウンスされた時点で嫌な予感はしていた。だから僕は熱くなりきれないながらもジョエル殺しの連中を一歩的に蹂躙したかったのだ。「ほらみたことか」と、エリーに気持ちを重ねて。
しかしゲームがそれを許さない。なんなら物語を進めるにつれ逆にだんだんエリーが嫌いになってくる。お前が絡むと途端にストーリーが陰りだすからだよクソ!!このゲームが重い理由の100割がお前じゃねーか!!
とはいえそんな感情も冗談めいたモノであるから彼女への思いは7年前と変わらずそこにある。復讐だって遂げるべきだろう。二律背反でがんじがらめなこの思いはどうすればいい?ゲームは何も答えてはくれない。
辛い、苦しい、悲しいという感情の3Kが指に纏わりつき、格闘ボタンを押す動きを鈍くするばかりだ。
冒頭で述べた通り、前作は登場人物の複雑な感情変化をドラマチックに捉えた。プレイヤーはストーリーを進めることで「ああ、ジョエルその気持ちわかるよ」とキャラを通して共感を得たはずだ。
その点、感情変化を捉えたストーリ―であるという部分は『The Last of Us partⅡ』も同様なはずだ。しかし前作と大きく違うのは、感情の揺さぶり方をキャラクターの共感を介したものではなく、視点の変わるストーリーによって神の目を持つプレイヤーすらストーリーテリングとして利用することで獲得したということだ。
物語を多角的に捉えるという手法は多くの作品で行われてきた普遍的な構成だ。そんな単純な方法ではあるが、やはり“ゲーム“としてこのストーリーが存在することで神の頭をぶん殴ることさえ可能にしたゲームは非常に稀有であることは間違いないだろう。
確かに、ジョエルとエリーが好きで好きでたまらないほど今作に否定的な目を向けてしまうのは事実だろう。僕だって「ぼくのかんがえたさいきょうのラストオブアス2」をプレイしたかったという気持ちはある。前作のラストで隠した事実がどのように二人へ影響を与えるのか、回想ではなくじっくり見たかったとも。
しかし僕たちがプレイしているのはキャラゲーではない。過酷な世界で生きる人々の内、再び未来のエリーにスポットライトが当たったというだけなのだと思う。そして今作で描かれたのは正しくエリー達が選んだ道なのだ。誰に左右されることなく、今まで積み上げてきた人間関係や考え方、それらがすべての上に成り立つ物語。
それがどんな過程を通しどんな結末を迎えようと、そこにジョエルへの愛があればエリーの選択に抱く感情も少しは和らぐのだと思う。
このゲームは「復讐は何も生まない」だとか「視点によって正義は変わる」だなんて説教めいたテーマをとっくに超越しているように思う。その説教を越えた先にある意地や義務感、葛藤の行く末にエリー達がどのように折り合いをつけるのかという人間模様を見事に描き切ったこの作品は傑作として存在するべきだろう。やはり前作を超えることは無かったが。
ゲーム体験でここまでつらい思いをしたのは初めてだ。しかもその思いが僕の良心からくるものなのが胸糞悪い。そしてそれを理解したうえでやっているノーティドッグが憎い。
今回の旅で目撃したものは失うばかりで実りの無いものだったのは確かだ。だがしかしこの憎しみの連鎖は誰かが止めなくてはならない。だから僕ぐらいは今作を認めてそれをやってのけようと思うのだ。
このゲームは徹底的にプレイヤーを弄び、精神的苦痛を与えようとしてくる。しかし僕たちはこの重さを耐えて生き抜かなければならない。
好きで、ゆえに辛くて、ムカつくが面白い。『The Last of Us partⅡ』はそんなゲームだ。きっとこんなゲームは二度と生まれないだろう。
『BioShock』を愛してやまない【推薦】
海底二万マイルは好きか?
そう、SF小説…というか、ディズニーシーにある同名のアトラクションだ。
あのアトラクションが好きだ。それに僕はピュアであった。高校生になるまでマジで水の中に潜っていると思っていたのだ。
考えれば安全面とかメンテナンス的にそんなこと不可能なのは当然っちゃ当然なのだが、やはり夢のオリエンタルランドパワーを信じたかったし、実際に潜っていると思うと言いようのない感情が僕をいつでも少年に戻してくれた。
そんな海にちょっとした憧れを持つ僕が好きで仕方がないゲームシリーズがひとつある。
『BioShock』である。
深海、潜水艇、未知の生物……。ニ万マイルの雰囲気が好みな人間にはこのゲームが絶対刺さるはずだし、興味が無くてもこのゲームをプレイする価値はきっとある。
恐縮だが…時間があればこの記事に目を通してほしい。
ようこそ海底都市ラプチャーへ!!
なんと言ってもBioShock最大の魅力は舞台となる海中都市、「ラプチャー」の景色だろう。窓越しに見える海中の街並みは圧巻としか言う他ない。
飛行機の墜落から生き残った主人公はふと目の前に現れた灯台を通じてこの都市へ迷い込むことになる。そこでは50年代のアメリカを彷彿とさせる意匠やファッション、また都市建設を納得させてくれるオーバーテクノロジーをゲーム中のそこかしこで見ることが可能だ。
「Unreal Engine」で構成された美麗なグラフィックは数年前のゲームであるものの目を見張るモノがある。煌びやかなビルヂング、揺蕩う魚たちや鮮やかな海草。一級品の水表現。そして死体。文句なしのロケーションじゃないか。
死体…そう、何を隠そうBioShockのジャンルはホラーFPS。進むには銃を撃つことだ。
栄華の限りを過ごしたラプチャーの現在は外観からは想像もつかない程崩壊してしまっている。「ADAM」という遺伝子物質を狂い欲する住民たちがそこら中に潜んでいるからだ。
スプライサーと呼ばれる彼らはADAMを過剰摂取した影響で異形と化しており、精神も崩壊してしまっている。虚空に話しかけ、奇妙な歌を歌いながら主人公に襲い掛かってくるのだ。カミハオレヲアイシテル…
ホラーゲームと言いはしたが、それでも昨今のゲーム…例えば『バイオハザード7』レベルで怖いかと言われればそうでもない。
このゲームはあちらとは違って孤独ではない。登場するキャラクター達がラプチャーに関する話を次々としてくれるため、恐怖の感情よりプレイヤーの興味が物語や設定にどんどん潜航していくのだ。
特に主人公がラプチャーにたどり着いた直後に出会うことになる「アトラス」というキャラクター。
彼が主人公にモノを頼むときは必ず「恐縮だが…(Would you kindly?)」と丁寧に頼んでくれるのだが、水と狂気で満たされたこのラプチャーにおいて彼の大胆ながらも低姿勢な言動は非常に印象に残る。
なんてことないことも丁寧に頼まれるのでなんだか従いたくなってしまう。ラプチャーの説明をしてくれたり家族思いな点も好感が持てるしね。
基本的に主人公はラプチャーに偶然迷い込んだ人間で、なんのも目的もない。そのため彼から指示を貰ってライアン一家と共にラプチャー脱出を目指すという「おつかい系ゲーム」であることはここで言っておこう。ゲームなんて大抵おつかいだが。
彼の他にも、ラプチャー創始者のライアンや狂気の芸術家サンダー・コーエンなど、魅力的なキャラクターが盛りだくさんである。
彼らや住民がどのような思想でラプチャーを作り上げ、暮らしていたか。それは各所に点在する収集物「ダイアリー」で知ることができる。煩わしい読み物などではなく音声で聞くことができるレコーダーなので積極的に聞いておこう。
そしてBioShockを語るうえで「ビッグダディ」の話題を避けて通る道理は無いだろう。
彼はゲーム内で最もアイコニックな存在だ。カッコよくも不気味なビジュアルは世界観に合致しているし、設定も豊富。そのうえ体力の多さや攻撃性能はもはやラスボスより上だ。
コイツはとにかくカッコいい。この鉄臭さと鈍く光るヘルメットは理屈でなくフィーリングでビシバシと少年心を刺激してくる。
リトルシスターという少女を守るためにヤツは行動している。危害を加えなければ威嚇をしてくるだけだが、ひとたびレンチで小突こうものならドリルアームを回し、図体に見合わないスピードでプレイヤーを殺すまで執拗に追いかけてくる。その様子は「青鬼」とか「OUTLAST」を思い出させる。
しかしこちらが持っているのはハンディカムではなく銃、抵抗は十分可能だ。それに攻撃する方法は銃だけではない。
このゲームが面白いのはスキル要素があるFPSであるという点。電気を発したり、サイコパワーで物を投げたり、敵を催眠状態にするなど、「プラスミド」という左手に宿る超能力がこのFPSを面白くしている。
ゲームの舞台は海中都市。全編を通して屋内で過ごすため、マップは入り組んでいる上に非常に狭い。一見戦いづらいように感じるが、そこでこのプラスミドが活きてくる。
電撃を水に与えれば水中の敵に伝播してダメージを与えてくれるし、オイルに火を灯せば広範囲に敵を焼き払うといったように、様々なオブジェクトや能力を利用した戦略性の高さを楽しむことができるのだ。
そのほかに移動速度や回復量を上昇させたり、敵から発見されにくくするなど、数多くのスキルが存在している。どれを付け、なにを外すかという組み合わせを考えるのも今作のキモだ。
見事ビッグダディを倒す事ができればシスターからADAMを手に入れる事ができるだろう。主人公にとってもADAM由来のアイテムであるプラスミドを扱うためには必要なモノなのだ。
『Bioshock』は魅力たっぷりの名作FPSだ。やるゲームが無くなった時にはぜひバイオショックシリーズをプレイしてもらいたい。
FPSとしては少々古臭い部類ではあるが、このゲームは唯一無二。この海底都市という舞台を一人でも多くの人に味わってもらいたいのだ。
シリーズのシナリオはどれも一級品。ストーリーは例外無く難解だし、展開は僕たちを焦らしまくるが初見でもしっかり楽しめるのがこのゲームの凄いところだ。王道ながらも様々なところに仕掛けが張り巡らされた秀逸なシナリオは鉄砲水に撃たれたような衝撃を感じること請け合いだろう。
ラプチャーとは一体なんなのか?なぜ崩壊してしまったのか?ビッグダディの正体とは?墜落現場付近に都市への入り口があったのは偶然か?そして誰もが口にするフォンテインとは何者なのか?
謎は尽きない…。
恐縮だが、ゲームをクリアした暁にはぜひ2周目を遊んで物語の全容を掴んでほしい。物語冒頭の何気ないシーンや音声がストーリーの根幹に関わっているものもある上、内容が明かになったことでラプチャーの世界観、人物の思想も掴みやすくなっているはずだ。
手に入れられなかったプラスミドや武器を試してみるのもきっと楽しいだろう。
…さて、このゲームについて書いた理由は他でもない。当シリーズの主人公、ブッカー・デュイットに声を当てていた声優、藤原啓治氏が亡くなってしまったからだ。
ブッカーというキャラクターが僕は大好きだった…、本当に惜しい。そして何をやってもこの穴は埋まらないだろう。
便乗するような流れになってしまったが、彼の訃報を受けてどうしてもイチからシリーズをやり直したくなったのだ。この並々ならぬ思いを帳消しにするのは難しい。しかしゲームの魅力を再確認したり、ブッカーに触れることは何回でもできる。新作が出るなんて話も聞いたしね。
結局のところ、人間と奴隷の違いはなんだ?金か権力か?
いや…人間には選択することができるが、奴隷は従うのみだ。
アンドリュー・ライアン
あなたはこのゲームで人間と奴隷、どちらになる?きっとゲーム内の”ある決断”が自身を、ラプチャーを、そして世界を救うことになるはずだ。
余談として、僕の各作の評価に関しては
ストーリー性は 1 ≒ infinite(3) >> 2。
戦闘の楽しさは 2 > 1> infinite
なのだが、ストーリーに関しては1とinfiniteが面白すぎるだけで2がつまらないわけではないと強調しておきたい。